耳を傾けることのアート
"聞く" と、"聴く" では、ニュアンスが違うんだよ、と聴いたことがあります。わたしたちは、"心" を入れながら、大切なことを "聴いて" いるでしょうか。例えば、誰かと愛の中にいるとき、わたしたちは、愛する人の声や、言葉を丁寧に心で受け取ろうと、耳を傾けて、"聴く" ことをしているかも知れません。その人が話してくれることを、自分の中で感じ、愛に満ちたその人の言葉と、一つに溶けていくかのようです。反対に、わたしたちが、その愛する人と衝突をして、傷ついたり、怒りなどの感情があまりに高ぶっているとき、その人がどんな説明をしてくれようと、わたしたちは"聞く"ことはできても、"聴く"ことは、難しくなっているかも知れません。まるで、その人と自分の間にすっかり隙間や距離が作られてしまって、その人の言葉を理解することもできず、あれほど溶け合っていたと思っていたのに、今では、自分を守るために、心に厚い壁を作っているようにすら感じるかもしれません。
わたしたちが、"聴く"ことが困難な時、そこには必ず分離があります。
わたしの想いはこうで、でもあなたの考えはこう・・・
わたしはこう言ったのに、あなたはこう捉えてしまう・・・
わたしとあなたは別々の存在・・・
もちろん、ある側面から見ると、やはりわたしたちは肉体をもって、個々に分たれながら地上を生きているので、健全な境界線を持つことの重要性は確実なものですが、"聴く"ということにおいて、あるいは、愛を通して一つになるというスペースにおいては、わたしたちは、"わたし"という感覚や、エゴ、マインド、分離した感覚を落とす必要があります。 そして、ハートの中へと降りていき、すべてはひとつであるということを真実として知っている、そのステージへと続く扉の中へ自分自身を溶かしていくとき、わたしたちは、あらゆる存在と繋がることが可能です。
それは、人だけでなく、あらゆる生命に対して、同様です。例えば、動物たち、そして、自然界にあるもの・・・ある意味で、動物や自然との交わりの方が、わたしたち人間同士で起こりがちな、エゴ同士の葛藤がなくて、それらの声を"聴き"、ひとつになることは、より簡単なことかもしれません。"聴く"というアートは、あなたにとってどのような意味を持っているでしょうか。
「WHO AM I ??」
わたしは子供の頃、よくひとりで、自分自身に意識を向けながら、「わたし、わたし、わたし」とつぶやいては、「これを言っているのは誰だろう?」「"わたし"と思って生きているこの"わたし"は誰なんだろう??」と よくわからない謎めいた渦の中に自分を連れていくような、不思議な楽しみを持っていました。それから、大人になって、特にこのことを考えることもなくなっていましたが、インドへでの滞在の中で、聖山アルナチャラを訪れたとき、この問いかけがわたしのもとに戻ってきました。このアルナチャラの山には、かつてそこで一生を送った聖人のラマナマハリシという男性がいます。ラマナマハリシの名前こそは聞いたことがあったものの、ここに来てわたしは、ラマナマハリシが、「Who am I ? (わたしは誰か?) 」という問いかけを通して、人があらゆる幻想から自由になることを促したという教えに初めて触れる中で、このことを思い出しました。「もしかして、わたしが子供の頃に自分に問いかけていたのは、これだったのかな?」と。
この時の旅において、わたしは多くの師に恵まれました。ラマナマハリシもそうですが、何よりも、わたしの意識を大きく開かせてくれる偉大なグル(導師)となったのは、木や、石や、山、そして、馬や牛や犬などの動物たちでした。それらとの対話の中で、わたしは改めて、無になることや、自分自身の想念や意思を、より高次のものへと明け渡して空っぽになることこそが、あらゆる生きる物とわたしが繋がることを許してくれる扉であることを、実体験を通して学ぶことができました。そして、そこにあるのは、何か、"わたし" と "あなた" という分たれた二者の間での対話を越えて、ひとつであるという、合一の中での交わりなのだということも学びました。内側の深くで、わたしたちはすべてと繋がり、ひとつであります。個人として生きていく日常の中では、どうしても、わたしたちの概念を通して、これを理解することは難しいですが、マインドやエゴ、"わたし"という想念が落ちるとき、これは本当にそうなのだと、ハートの中で知ることができるように感じました。こんなふうに、人間とは異なる言葉で声を発している存在たちの声を"聴き"、わたしたち人間との間に、橋を渡していくことができたらいいなというのが、今のわたしの大切な願い事です。
癒しは双方向に働きます。癒しというエネルギーが、単に、わたしたち個人間を通して動くエネルギーであるだけでなく、神なる存在の光が癒し手を通して、受け手に届くのだということ、癒し手が単なる媒介に過ぎないという理解のもとに行われるとき、癒し手は、神なる存在が自らを通って動くことの体験の中で、その人自身も癒されます。動物の声に耳を傾け、自然が伝えている話を聴くとき、わたしたちもまた癒されます。
幸せな仔牛
動物や自然の話していることを理解する鍵は、自分自身を空っぽにすることにあり、先入観や思考を越えたところで、ただそれらと共にあり、ひとつになることだと学びだしていたにもかかわらず、ある日、わたしは、そのことを危うく忘れるところだったところを救われました。南インドの日々、毎日会いに行っていた、可愛い仔牛と動画をなんとなく撮っていた際、こんなに可愛い動物を本当に殺してまで食べる必要があるのかについてのメッセージを伝えられるような動画としてポストをしようかななどと、わたしは思い浮かべていました。「この子もそう言っているかな?」、「もしかすると人間にそのうち殺される怖さを感じているのかな?」と、耳を傾けて聴いてみました。そうしたらびっくり、この子はそんなことへのメッセージや恐怖など全く持たずに、ただこう言っていました。「世界は平和で、良いところ」。これが、彼の内的な体験、彼が認識している世界でした。そして、この地上は体験するにいい場所だと、彼は感じていました。わたしは、自分の先入観で、この子の本当のメッセージを見逃すところだったことに気づきました。彼のメッセージは、先に起こるかもしれないことで恐怖に覆われることなく、内側に、今ある平和につながることの大切さを思い起こさせてくれました。このメッセージを伝えてくれた後、わたしの足に顔を載せたままで、お昼寝をしてくれました。
役に立ちたいと願う白い馬
ぬかるんだ道の上で、いつも寂しげに佇んでいたこの馬の、声を聴くことができるまでには、少しずつ心を通わせていくための時間が必要でした。けれどある日、彼は、「自分は人の役に立ちたい」ということ、そして、「自分は人の役に立っていないように感じる」ということを話してくれて、彼の寂しげな様子は、その想いを反映しているものであったことが感じられました。彼の心の痛みがわたしの心に伝わってくると同時に、わたしは、自分の中にも、彼とまったく同じ想いがあることに気づきました。わたしたちはお互いに共鳴をしていました。わたしは彼に、"こんな風に、わたしに話をしてくれて、他者のために役立ち貢献したいのだという切望を伝えてくれただけでも、充分に役に立ってくれているよ”と言うことを伝え、彼のもとを去りました。相手の中に見るものは、自分の中にもあり、時に他者を通して自分自身に気づくことは、動物を通してからも可能であることを、改めて思うに至った体験でした。
インドにはたくさんの野良犬がいて、ときには本当にひどい扱いを人間から受けながら生きています。当時、わたしが住んでいた家の周りは、特に夜には治安が悪く、女性たちは夜に歩くことはあまりにも無謀なほどでした。わたしにとっては、特に陽が落ちて辺りが暗くなってから、野良犬たちが家の周りにいてくれることは、むしろ大きな安心感につながっていました。この一匹の犬とは、特に繋がりを持つことができ、彼は、わたしの帰りをいつも喜んで迎えてくれ、夜には警備をするかのように家の近くにいてくれて、人間たちにいじめられていた子犬を守るように伝えたときにも、きちんと彼の役割を理解してくれているようでした。しばくしてわたしがその家から出ていくお別れの朝、彼に改めて感謝を伝えるとともに、彼が素晴らしい役目を果たしていることへの認識を伝えると、彼は、わたしの言葉を"聴いて"、頭蓋骨を動かし、背筋をしゃんとさせました。彼が、自分自身の事を、人間たちに見向きもされない野良犬のひとりとしてではなく、きちんと役割を持ち、意識的に生きている存在として、誇りを持ちながら、ここからを生きていくということが感じられました。わたしたちは、自分の姿が、他者に深く認識されるとき、さらに自分自身を具現化していくことが可能です。

地中に深く根を張っている木は、グランディングそのものの象徴でもあります。見えてはいない、根っこの部分をどれだけしっかりと強めることができるかということ、そして、見えている部分はその結果であるということ。わたしたちが、地に根を張っていく作業も、目には見えないものですが、天に向かって高く伸びることを求めるほど、ルーツをしっかりと構築することは重要です。