こんにちは。
セイクレッドテンプルの今村えりです。
3月も終わりを迎えようとしていますね。
皆様、いかがお過ごしですか。
バリ島では、明日、ニュピと呼ばれます特別な一日を迎えます。
日本でいう新年に当たる日ですが、この日は「沈黙の一日」と呼ばれ、信仰の深いバリの人たちにとって、とても大きな意味を持ちます。
バリ島に長く住んで気づくことのひとつに、「神」「祈り」「スピリット」という言葉が、バリの人たちの中で、日常的に用いられている言葉であるということがあります。
また、誰かが病気や事故にあったときには、その原因に、誰かの嫉妬や怨念による「ブラックマジック」の存在があるのではないかと考え、家の中でぼやが起こったときには、親戚中が一同に集まって、家の敷地内に設置されている寺院に供物を捧げ、浄化の儀式を行います。
迷信深いと言ったらそれまでなのですが、いづれにしても、バリの人たちにとっての「現実」は、物理次元だけでなく、エネルギーの領域と深くかかわりを持っています。
そのようなバリの人たちにとって、新年もまた、特別な意味を持っています。
ニュピと呼ばれるこの一日、バリの人たちはもちろん、わたしも含め、島にいる人たちは全員、家の中に籠り、沈黙の中で一日を過ごします。
断食をし、夜はほんの少しの灯だけをつけて、新しい一年を粛々と迎えるのです。
ニュピの一日前には、オゴオゴと呼ばれる山車が通りを歩きます。
各村人たちによって作られたオゴオゴは、どれも、おどろおどろしい形相をしています。
一日の終わりには、オゴオゴはすべて焼き尽くされます。
オゴオゴは、” 悪いスピリット” の象徴です。
バリの人に尋ねたら、この “悪いスピリット” とは、わたしたちの外側、内側の両方を指しているとのことでした。
わたしたちの中にある邪悪さ、わたしたちを取り巻いている負の存在の両方を意味するようです。
一年の終わりに、”悪いスピリット” を燃やし尽くし、そして新しい一年の幕開けを迎える際には、それらの存在によって、邪魔をされることなく、沈黙や瞑想の中に入っていけるように・・・
そのような意味合いがあるようです。
わたしは、この “悪いスピリット” や “邪悪さ” を、「影」と呼びます。
わたしたちは、誰しもが、光の側面、影の側面を持っています。
どんなに良い人として称えられている人にも、影の側面はあり、どんな凶悪な人にも、光の側面は存在しています。
分岐点となるのは、わたしたちが、どちらの側面を通して自分を表現するかということを、どれだけ意識的に選択しているかということに尽きます。
わたしたちの中で、かつて愛されなかったもの、受け入れられなかったものは、わたしたちに十分にその声を聞かれることなく、痛みを抱えたままでいます。
その様子は、まるで、暗闇の中で部屋の隅っこに追いやられ、膝を抱えてうつむいている子どものようでもあります。
わたしたちが、自分の中にある、これらの、「愛されず、受け入れられず、聞き取られなかった存在」を、敬意とともに認識することができるようになるとき、その子どもは、少しずつ明るいほうへと自ら歩み出てくるかもしれません。
あるいは、そのまま部屋の隅に留まり、影として生きることを選んだとしても、邪悪さへと姿を変えることはないかもしれません。
わたしたちの中の痛みから生まれる、この影の側面が、わたしたち自身の手に負えなくなるのは、それが愛されなかったときです。
ディバインエンボディメントヒーリングにおいて、わたしは、その方のスピリットに出会い、迎え入れます。
前述のとおり、わたしたちの中には、光の影も存在していますので、スピリットそのものに優劣は存在していません。
愛と敬意とともに、ただあるがままの姿さえ、迎え入れられることができるとき、わたしたちの中で大きな安堵が起こります。
癒しは、真実を迎え入れることの中で起こります。
わたしたちが、自分の中に見つける真実が、いわゆる、いいものか、悪いものかということとは関係がありません。
ありのままを受容する瞬間は、涙が出るほどの美しい体験になりえます。
わたしたちは本来、誰しもが、自分自身の本当の姿に触れることを求めているのです。
セッションが唯一、困難さを見せるのは、その人が、自分自身の影を一切見ることができないとき、受け入れることができないときです。
あるとき、わたしは、その人のスピリットが完全に二つに分断され、悪魔と天使の両極を抱えている人に出会いました。
つまり、その人は、「影」と「光」の中でも究極のものを抱えているということができます。
それは、その人自身の選択によっては、その人が、自分自身、他者、そして世界に対し、他の人にはなしえないほどの大きな善をもたらすことも、計り知れないほどの破壊をもたらしうることも可能であることを伝えていました。
その人が、それだけの大きな極を、自分の中に抱えることができていること自体、敬意に値することでもあるのですが、問題は、その人が、自分自身の影の側面、悪魔としての自分の一部に、まったく光を注ぐことができておらず、気づいていないということでした。
結局その人は、セッションとわたしに対し、大きな不満と怒りを残して去っていきました。
では、もしも自分自身の癒しと統合を真に求めるのならば、わたしたちは何をしたらよいでしょう。
まずは、自分自身へのジャッジを止めることです。
自分自身への批判を止めない限り、わたしたちにとって、自分の影の存在を受け入れることは容易ではありません。自分の中で抱えることができないものは、外側に投影されます。自分の中に見ることができないため、外側の誰かを通して、自分の姿を見るしかなくなってしまうわけです。
他者に矛先を向けることは、自分自身の癒しの役に立ちません。
そして、勇気をもって、自分自身のあらゆる真実に耳を傾けることも役に立ちます。
それが居心地のよいものであっても、都合の悪いものであっても、真実さえ迎え入れることができれば、癒しは起こります。
(わたしたちが、自分自身の真実を見ることができるかどうかということと、サイキック能力や直観能力を持ち合わせているかどうかということは、まったく別次元です。)
バリ島では、ニュピの前日、わたしたちの中で迎え入れられてこなかったものが表層に現れ、燃やし尽くされる今日、人々の中にある影の側面が光の下にさらされます。
そして、影が明るみになるからこそ、ニュピにおいては、静かな沈黙が訪れるのです。
今日、そして、明日と、お風呂に入っているときや、眠る直前の、10分や15分でも構いません。
よろしければ、ぜひ、皆様も、ご自身の影、そして光の両方を、沈黙の中で、見守ってみてくださいね。
最後まで読んでくださいましてどうもありがとうございました。
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バリ島よりたくさんの愛を送っています。
セイクレッドテンプル
今村えり