わたしが、父が腎不全という重い病にかかっているということを母から聞かされたのは、まだ物心がついたばかりの頃でした。

当時の小さな頭でわたしが思い描いたのは、病気というのは、きっと、神様に、たまたま選ばれてしまった誰かがなってしまうもので、からだのどの部位にどのような病いが生じるのかということも、何の法則性もない、ランダムなものなのだという理解とイメージでした。

 

人のエネルギーの流れや、からだから発せられているメッセージを読み取る能力を身に着ける中で、肉体と、感情や精神や霊性の密接な繋がりを理解した今では、病気は、たまたま選ばれてしまった人がなるものでも、適当な部位に病が生じているわけでもないことを明確に見て取れるに至った今では、当時のわたしの理解は、子どもならではの無知や見当違いだったことが分かりますが、よくよく振り返ってみると、比較的大人になるまで、わたしはその当時の理解とともに過ごしてきたように思います。

それに、肉体を、神秘に満ちた神聖な器だとなど感じることもなく、むしろ、「もの」のように捉えていました。 あるいは、病気や、都合の悪いことが起こることに対して、何か悪いことをしてしまったから、神様に罰せられているのだというような感じ方すら持っていたようにも思います。

 

わたしは自分自身の肉体との間に、希薄な関係性を持っていたのと同様に、神なる存在との間にも、恐れをもとにした、とても幼稚で誤った関係性を作っていました。

 

 

わたしの人生や見解が大きく変わった今、当時、自分がどのような理解や生き方をしていたのかということを、不思議な思いで眺めていますが、そんな風に振り返ったとき、皆さんは、病気や不調になることに対して、あるいはそれらを治したり癒したりすることに対して、どのような理解や見方をされているのかしらと思いました。

 

多くの人たちが、スピリチュアリティーに対して開いていっている今、あなたはもしかしたら、肉体の神秘に魅せられていたり、病気や不調を、かけがえのないメッセージとしてその声に耳を傾けていらっしゃったり、肉体が、感情や精神や霊性が密接に関わっているということを、あなたの日々の生活の中で、実際に体験していらっしゃるかもしれません。

 

あるいはもしかすると、かつてのわたしと同じようなイメージや理解を持たれていらっしゃる方もいらっしゃるのかもしれません。

わたしの友人のお姉さんに、癌を患われた方がいらっしゃっり、わたしと友人は、からだや病を、ホリスティックに見ていくことについて話をしていたのですが、その友人の言葉を借りると、お姉さんは、「癌になった部分を単に切って捨てればいいと思っているタイプ」ということでした。

 

 

そこで、今日は、病気や不調とは何なのかということについて、「治す」ことと「癒す」こととの間にどのような違いがあるのかということについて、そして、真のスピリチュアリティーにおける神なる存在との適切な関係性とはどういうものなのかということについてのお話をさせていただきますね。

 

 

わたしたちのからだは、わたしたちの感情や精神や霊性と密接につながっています。からだは、それらから切り離された「もの」や「物質」ではなく、わたしたちの感情や精神や霊性が、目に見える形で具現化された、「有機体」です。

 

例えば、誰かに恋をしたり、情熱を傾けられる何かに夢中になるとき、瞳の奥が輝き始めたり、からだが軽く感じられたり、頬には赤みがさして、いつも以上に活動的になったりしますよね。あるいは反対に、仕事で失敗をしてしまったときや、信じていたものが壊れてしまったときなどには、両肩が重い感じがしたり、息が苦しくなってしまうかもしれません。

感情や精神や霊性など、目には見えない微細なエネルギーの次元でわたしたちが体験したことが、その内的な体験を、肉体という有機体を通して表現するのです。

 

 

不調や病気になったときもそれは同じです。

わたしたちがすでに体験した、あるいは体験し続けた特定のエネルギーが、最終的に、肉体という有機体に信号を届け、そのエネルギーを司っている肉体の領域を通して、声をあげています。つまり、誰が不調や病気になるのかということも、どの部位にその不調や病気が顕れる必要があったのかということも、偶然ではないわけです

 

 

 

さて、ここからが「治す」ことと「癒す」ことの異なる領域についてです。

 

目には見えない微細なエネルギーの蓄積が、よりよい健康状態としても、あるいは、不調や病気としても、肉体に具現化されるということをここまでにお伝えさせていただきました。

その微細なエネルギーとは、例えば、その人自身が、人生において積み重ねてきた一つ一つの”選択”や、どのような”信条”と共に生きてきたかということ、自分や他者とどのような”関係性”を結んできたかということなど、多岐に渡ります。

 

西洋医学は、わたしたちの肉体に、不調や病気として、エネルギーが具現化されてしまったとき、その症状を緩和させたり、状態を軽減させたり、あるいはまったく消滅させてしまうことすらしてくれます。薬や手術などを通して、わたしたちは不調や病気を「治す」ことができます。 西洋医学の発達から受け取る恩恵はとても大きいものです。

 

けれど、不調や病気の背後にあったエネルギーはどこに行ったでしょうか。

それらは、なくなってはいません。

 

根っこがなくなっていない以上、わたしたちのからだは、再び同じ方法で、あるいは、からだの別の部位を通して、そのエネルギーの出口を見つけて、わたしたちにメッセージを送る必要性を持ちます。西洋医学が取り除いてくれたものは、「結果」であって、「原因」そのものではないのです。

つまり、西洋医学は、「治す」ことはしてくれても、「癒す」ことはしてくれていません。

 
不調や病気として顕れたものの、根っこにあるメッセージや情報に対して、わたしたちが取り組み、その根本を「癒す」ことを助けてくれるのが、ホリスティックなアプローチです。

不調や病気を、わたしたちの内的な世界の扉を開くための入り口として捉え、多次元に広がるわたしたちの地図を丁寧に紐解いていくと、不調や病気を引き起こしている根本部分にあるメッセージに行きつける可能性があるだけでなく、地図を紐解いていく過程において、わたしたちの霊的な使命がなんであるのか、わたしたちがどのような可能性に満ちているのかということすら見えてくる可能性があり、わたしたちの視野は、不調や病気を軽減することだけにとどまらず、自分自身の人生を最大限に創造的に生きることへと拡大されていきます。

 

西洋医学が、今まさに起こっている物理的な現実に対して呼応する役割を果たしてくれているのに対して、ホリスティックなアプローチは、水面下で起こり続けてきた内的な世界における現実へと、わたしたちの意識を運んでくれます。

 

 

さて、こんな風にお話を聞いていただくと、今度はこんな捉え方や問いかけが浮かんでくると思います。

「病気になったのは、わたしのせいなのか?」

この質問は、わたしたちがからだを「もの」として見る在り方ではなく、からだを、感情や精神や霊性と繋がっている「有機体」として受け止めるようになっている人たちに共通して起こりやすいものです。

「からだが、心や精神と繋がっているのならば、不調を繰り返したり、病気から抜け出せないのは、わたし自身のネガティビティーのせいなのではないか?」

こんな風に考えてしまいます。

 

 

不調や病気が、何らかのメッセージであることは間違いありません。

けれど、それらが、当事者のネガティビティーや、悪い行いによるものだという捉え方は、とても短絡的な誤解です。

 

 

あなたはきっと、この情報を聞いたら驚くかもしれません。

わたしたちの体験する不調や病気の80%は、他者の問題を吸収したことによるものであり、不調や病気になっている本人に起因するものではないのです

 

この情報が示しているのは、不調や病気の根っこをたどると、ほとんどの場合、本人以外の誰かやどこかに行きつくということです。

わたしたちは、「個人」であると同時に、他者や環境など、多くの複雑な関係性の中に属して生きています。わたしたちは無意識にも、他者の問題を自分のものとして吸収してしまうことが、実は非常に多くあるのです。そして、それは、なんらかの罪悪感からだけでなく、愛によってなされていることも多くあります。

そうすると、不調や病気そのものを「治す」ことと同時に、その問題の根っこの部分を見出し、そこに「癒し」を向けることが重要ですよね。

 

 

 

そして最後にもう一つ。

 

その不調や病気を体験することを通してでしか、開くことのできない大切な扉があり、わたしたちの成長や目覚めのために、その不調や病気が、祝福として訪れれているということもあります。

わたしたちのマインドの領域では、それを理解することも受け入れることも容易ではないことですが、自分の力で選択し、創造していくことができることがわたしたちには多々ある一方で、神なる存在に委ねるしかないことも、実は多く存在しているのです。

 

 

治ることと癒えることは同じではありません。

不調や病気そのものが治って、からだが健康であっても、根本の原因は癒されておらず、スピリットは瀕死の状態ということもあります。からだは元気なのに、自分の内側がバラバラな状態です。

また同時に、不調や病気を抱えていても、スピリットは完全に生き生きとしているということもあります。からだには困難さが残ったままであっても、また、そのまま肉体を離れることになったとしても、意識が目覚めた状態で、スピリットが完全に輝いている状態であることも起こりえます。

 

自分自身を肉体として捉えた場合には、もちろん、自分自身の健康づくりに積極的に取り組むことはとても大切ですが、自分自身を肉体という器に入ったスピリットであると捉えた場合には、人生で何が起こっても、人生そのもの、あるいは神なる存在への信頼を持っていられる強さを作ることに取り組むことが、わたしたちにとっての重要な鍵になります。

 

真の霊的な道のりとは、その両方に邁進することを指しています。

スピリットと肉体、天と大地、その間でバランスをとることの中に、真のスピリチュアリティーが存在しています。

 

 

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この秋、10月11日~11月10日の30日間限定にて、東京での対面セッションを受け付けさせていただいています。次回は、2017年初夏を予定していますので、セッションをご希望の方はぜひこの機会にご体験くださいませ。期間限定セッションの詳細は、こちらよりご覧いただけます。

 

 

あなたがこの地上で、あなたの肉体を通して、あなた自身の携えている愛と喜びを十全に生きることが出来ますように。

 

 

愛と光とともに

セイクレッドテンプル
今村えり

 

 

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