” あれ? 何か気持ち悪いかも。”
お昼ご飯と散歩を終えて宿に戻ってきて、ふとそう気づいてから、ベッドに倒れ込むまで、そう時間がかかりませんでした。

わたしは今、夏の気候の南インドに滞在しています。

衛生環境の劣悪なインドでは、外国人旅行者の体調不良は当然のように起こり、同じ時期に同じエリアに滞在している旅行者たちが一気にあちこちで発熱や下痢や嘔吐に襲われることも珍しくありません。

あまり神経質にならずに日々を送っている割に、わたしは比較的健康なままで過ごす方なのですが、先日、突如、極度の体調不良に襲われました。

嘔吐に対して大きな恐怖と抵抗があるわたしは、”うわー、もう熱でも下痢でもいいから、嘔吐だけはやめてくれー”という感じで、極度の寒気にぶるぶるからだを震わせながら、どうにか助けを求めようと、まずは、部屋を出たところの宿の通路で見かけたロシア人カップルに声をかけて、寒いので毛布を持ってきてくれるように下の階のオーナー女性に伝えに行って来てもらえるように頼みました。

話が通じたようだったので、わたしは再びよろよろと部屋に戻って横たわったのですが、15分、30分と待っても、一向にオーナーが来る気配なし!

これがまさにインドの通常運転、 インドスピードです 笑

一人で嘔吐の恐怖とプロセスを乗り越えられない気がとてもあったので、オーナー女性にせめて近くにいてもらえることを期待していたのに・・・

吐き気もいよいよ高まってきて、これはもう一人ではだめだと、再び部屋を出て、すぐ向かいの部屋のドアをノックしました。
すぐに親しみやすい笑顔でドアを開けてくれたのは、50代くらいのオーストラリア人男性でした。

“食中毒に当たったっぽくで、吐きそうなんだけど、背中とかさすってもらっててもいい?”

初対面でいきなりです。。。

明らかに目がいってしまっていて、よたよたになっているわたしに、

“かわいいそうに、もちろんだよ”

と、彼はわたしがあたかも彼の長年の付き合いの大切な友達かのような態度で、すぐにレスキュー体勢に入ってくれました。

わたしなら、初対面の人の嘔吐など、絶対に手助けできることではないのに。。。

 

感謝を伝える間もなく、お風呂場に倒れ込んで、寒感とともに、激しくからだを痙攣させながら、涙も出てくるし、ただただ、その人に背中をさすってもらったり、
バケツにためた暖かいお湯を手桶でゆっくり肩から流してもらったりしながら、何時間も過ごしました。

あまりろれつも回らなかったものの、吐き気の波が収まり、お風呂場に横になったままでほんの少し休息が出来る合間に、彼がわたしが楽になるように、優しく笑いかけながら話しかけてくれることに応じたりして、普通ならこの状況を申し訳なく思ったり、恥じたりしてもいいくらいなのに、彼のあり方は、まったくわたしに引け目を感じさせるところのない、自然なものでした。

わたしは、この男性の無私のサポートにとても感動しました。
安心感の中で、翌朝にはわたしの体調は回復していきました。

その後で知ったのは、その前日に、わたしの隣の部屋の男性も、同様に急激な体調不良を起こしていて、その際も、この男性が水や果物を運ぶなど、その人のお世話をしていたということでした。
こういう体験をすると、わたしは誰がヒーラーなのかと思い知らされます。
職業としてヒーラーを名乗っている人だけがヒーラーではないはずです。
無私のスペースから、愛を提供できる人は、真のヒーラーだと感じます。
なぜなら、人を癒すは、愛の力に他ならないからです。

そう考えると、わたしたちの誰しもがヒーラーの質を携えているはずです。
なぜなら、愛はわたしたちの本質そのものだからです。

そうすると、自分自身の本質である愛を表現したいという思いは、誰しもが持っているはずなのです。

その場合、役に立つのは、どのエリアにおいて、あるいは誰 / 何に対して、自分の愛が、自然に流れていくのか、自分の愛が、努力なしに注がれていくのかを知っていることになります。

例えば、ある人にとっては、それは、家族や小さな子供たちに対してかもしれませんし、環境保護に対してかもしれませんし、あるいは、美しさに対してかもしれません。

わたしを助けてくれたこの男性は、他者(知らない人であっても)の肉体面のケアをすることに対して、無条件の愛と思いやりで満ちていました。

 

あなたにとっては、どんな時に、あるいは何に対して、あなたの中にある愛が自然に放たれていくでしょうか。

それを把握できていることは、もしかすると、あなたをより大きく輝くかせると同時に、とても大きな喜びで満たすことかもしれません。

そして、もうひとつ鍵になるのは、今度は一方で、どんなことにはあなたの愛が流れないかを知っていることです。

例えば、わたしは、他者の”スピリットの次元”に対して、愛や思いやりが動きますし、そのエリアにおいて働きかけることが得意です。
一方で、他者の”肉体次元”のケアは、したくないことではないながらも、わたしの得意なことではありません。
それはわたし以外の人が得意とする領域だと知っています。

また、わたしは動物や植物の声を聞いて、理解を手渡すことで、動物や植物に、癒しを行うことに喜びを感じます。
何が戻って来なくても、愛したい、理解したい、ひとつになりたい、と自然に体が動きます。
けれど、インドで数分おきに通りかかる物乞いに対しては、それが子供であっても、たいがい、わたしの気持ちは動きません。
頭では、”なんで助けないかな” と思いつつも、ハートでは、明らかに “NO !” と答えています。
それがわたしの役割だと感じないだけでなく、単純に、助けたいと思わないのです。

 

今日、もしもあなたが、あなたの本質である愛そのものを世界に放つことを選ぶとしたら、あなたの愛はどこに向かうでしょうか。

あなたはあなた自身をどこに放つことを選ぶでしょうか。

あるいは、あなたが “愛するべきだ” と頭で思っているだけのことにエネルギーを注ぐことを止めることを選択するとしたら、自由になった分の愛を、あなたのハートが願っていたはずのどこへ新しく向けていくことが出来るでしょうか。

 

あなたの愛が、必要なところに行き渡りますように。

地上がより愛に満ちた場所として、天界と同じ姿を現しますように。

 

 

 

 

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