皆さん、こんにちは。

今はもう2020年の2月後半。新年のあいさつも出来ずにごめんなさい!
毎日があっという間ですよね。

寒い日が続いていますが皆さん元気にお過ごしでしょうか。

さて、わたしは直観能力者であり、アーキタイパルコンサルタント(元型のコンサルタント)なのですが、今日は、

「直観能力を高めたいなら、直観能力向上セミナーに行ったり、勉強会に参加をすることを考えることは絶対にやめましょう!」

という出だしからお話を始めたいと思います 笑

 

仮に、直観能力を高めたいと思っている方がいるとしましょう。なぜその人はそう思っているのでしょう。

 

すごいと思われたいため?

直観能力を使って、人の役に立ちたいから?

将来を見ることが出来れば失敗が少なくて済むと思うから?

 

そういった考えはすべて忘れましょう。

 

まず、直観能力とは先の何かを見る千里眼のことではありません。
今ここで起こっていることを正しく識別することのできる力のことです。

 

そして、それはギフトではありません。
それは、(スクールやセミナーではなく)自分の人生の体験を通してのみ得ることのできるスキルです。

 

神と特別な繋がりをもつ特権を得ることではありません。
自分自身と繋がることです。自分の中にある羅針盤を正しく動くように調整することです。

 

高みに登って崇高な人間であることを証明するものではありません。
静けさの中で地に足のついた状態で判断をする力です。

 

 

直観能力。

 

それを本当に磨きたければ、唯一の道は自己尊重を学ぶことです。

 

なぜなら、自分を尊重することや自分を信頼することが出来ないとき、どうやってわたしたちは自分の中から聞こえてくるかすかな声や、コンパスの針の細かな揺れや動きに気づくことができるでしょう。

 

そして、それが聞こえたり見えたりしても、「いやいや、まさか」と否定してしまいかねません。

認めるのが怖いからです。

 

ですので、言い換えると直観能力とは、自分にとって都合が良いかどうかを切り離して物事のありのままを見るだけの内的な力を高めることとも関連しています。

 

 

直観能力とは、いわゆるスピリチュアリティーに翻弄されて、何かの儀式を受けたり、グループに参加をしたりすれば身につくものではないのです。騙されないでください。

 

 

わたしの話をしましょう。

 

わたしは高い直観能力を持っています。

 

繰り返しますが、それは将来を見る力ではないので、間違いを犯すことはしばしばです。外に出ていて、空いた小一時間に何を食べたいのかを決められないまま、いくつかのレストランの前を無駄にウロチョロしているうちに時間を無駄にして、わたしは何をやっているんだろうと呆れることもよくありますし、かわいいと思ってネットで買った鞄や服が、届いて空けてみたら、何だこれ?というようなものであることもあります。

 

けれども、「今この瞬間」何が起こっているのかを見る力は確かです。

 

だからこそ、わたしは今の仕事を20年間続けてくることができました。

 

例えば、わたしたちは往々にして自分の本当の感情に蓋をすることで自分を守ります。クライアントが本当は悲しみで満ちているのに、そこのことに気がついていないとき、クライアントからエネルギーとしてあふれているように感じられるその悲しみの可能性を示唆すること、そしてそれがどこから、あるいはいつから始っているのかを読み取って、その方に示唆するもわたしの仕事です。

 

あるいは、クライアントの中に「自分は万能である」「神にも匹敵する力がわたしにはあり、人々を救う使命を持っている」という信条をかぎ分けることもあります。そのことを伝える上で、わたしに自己尊重が無ければ、クライアントの気分を害することを恐れて、とてもそのことを示唆することが出来るわけがありません。

 

 

クライアントの何かを言い当てて「ほらね」というためではありません。

 

クライアントが真実に触れることが、癒しの入り口となるために、わたしはそこにほんの少しのメスを入れるのです。

 

スーフィーの神秘家ルーミーの言葉に、「傷こそが光が入る場所」というような言葉がありますが、まさにその通りで、わたしたちは自分の痛みに光を当てることで、膿を出して、再び健全な自分に戻ることが可能なのです。

 

 

 

わたしたちにはひとりひとり、小さなころからこれが得意だった、あるいはこれが自分だったという何かがいくつかあるはずです。

 

その中には、わたしたちが自分を好きだと感じられる素質であったものもあれば、嫌いだけど、どうしてもそれを止められない、いつもそうなってしまうというようなものもあるはずです。

 

 

わたしの場合、直観能力は、より後者に近い形で形成されてきました。

 

わたしは機能不全家庭で育ち、まさに生き地獄の中から抜け出しました。

 

幼少期に、親族による男性によって不適切なかたちでわたしのからだに触られた記憶はぼんやりとしていて、それが本当だったのか自分の妄想なのか、頼れるのは自分の直観だけでした。つまり、頭で「そんなことあるわけないじゃない。だってあの人はわたしの祖父よ、わたしの父親よ」と言い切ってすべて闇に葬るのか、自分のからだの奥底からやってくる嫌悪感を信頼して「何かが起こったことは間違いがない」というところから記憶を手繰り寄せることを選ぶのか。親族を疑い続ける罪悪感との長い葛藤の末、わたしは自分の直観を信頼することを選びました。それは苦しいものです。そうでなければどれだけよかっただろうという思い、自分は汚い存在なのだという思い、ならばいっそ自分をより汚らわしい存在にしてしまおうという自暴自棄になってしまうこと。

 

直感を信じた結果、ハッピーになるとは限らないのです。

 

だからこそ、わたしたちは多くの場合、自己尊重と引き換えに、頭で作りあげたストーリーを自分に与えるのです。

 

お話を聞いてみると、どうやってこれまで生き延びてくることができたのかと思うほどの過酷な幼少期を過ごしてきたクライアントが、自分は両親によって愛されてきてすべてが完璧だったという話をセッションでつらつらと延々と話すことも稀ではありません。そのように信じてわたしたちはサバイバルをしてきたのですから。

 

 

今でこそ、子どもへの虐待は日々のニュースとなっていますが、わたしが子どもの頃は(そしてきっと、これを読んでくださっいる方の多くにとっても)、虐待が虐待として認められない時代でした。

 

教師たちは、わたしの訴えを信じませんでした。父親は母親が私を殺そうとしていることを笑って跳ねのけ、母親に殴りつけられている姉の横で何事もないようにテレビをみながらビールを飲み、父親に触られて「止めて」と叫ぶ姉の横で、母親は何も行動を起こしませんでした。

 

わたしの思春期は、わたしを殺すと脅していた母親に、今日こそ殺されるのだと覚悟とをして自分の部屋のベッドに入り目を閉じる日々の連続でした。毎夜、家族の目を盗み、台所からあるだけの包丁を抱えて部屋に戻ると、それらをベッドのマットレスの下に隠してから眠りました。トイレに通じる廊下を、母親がわたしの部屋に向かって夜中に歩く足音が聞こえると、目覚めと眠りの狭間にあるわたしは、とうとうこの瞬間が来たと思い、睡魔に身を預けて夜をやり過ごしました。

 

連続的な恐怖はわたしたちを麻痺させます。世界はそういうところだろうと思い、逃げるという考えを失うのです。親族からの虐待は、この世におけるもっとも残酷な裏切りです。歴史上において虐殺をされ苦しんだ人たちでさえ、家族との絆や愛された体験は持っていたことでしょう。そして、虐殺や暴力が間違っている、自分は(そして誰しもが)それを受けるに相当しないということを理解していたことでしょう。けれど、地上に降りて生まれ、初めて出会う人たちに虐げられたら、どうやってわたしたちは、それ以外の世界があるということを知ることができるというのでしょう。

 

かくしてわたしの直観能力は研ぎ澄まされつづけました。

 

誰がわたしに手を出したのか、そして、その意図は何だったのか。

なぜ母親はわたしを殺そうとするのか。そして、それは今夜なのか明日なのか。

 

緊張状態の中、頼れる人もなく、わたしがよりどころにできるのは唯一自分の中からやってくる本能であり、まるで自分に起こっていることを自分本人のことだと感じない程に冷静に覚めた感覚で見極める力を養うことだけでした。

 

ユングの『元型』の言葉を借りれば、これは<探偵>の『元型』です。

 

『探偵』は真実を追求します。

 

先に皆さんに、自分がこれまでの人生でずっとこうだったというものの中に、自分が好ましく感じる傾向と、そうでないのにそうだったものがあるということをお話しました。

 

それが『元型』と呼ばれるものなのですが、どの『元型』にも光の側面と影の側面があり、人によって、それが特にどちらの意味を持つのかということはまちまちであるため、『元型』そのものに良し悪しはありません。

 

例えば、あなたには<母親>の『元型』があり、どこまでも愛情深く、他者が人間として成長することを忍耐強く見守るちからが、子どものころからあったかもしれませんが、反対に同じ<母親>の『元型』であっても、あなたは、あなたが関わる人たちが息苦しくなるほどにその人たちの世話を焼くことを止められず、それを拒否されると自分の存在価値を否定されたかのように落ち込むというパターンがあるかもしれません。

 

 

わたしは、文字通り、子ども時代を殺されずに生き延びるために<探偵>の『元型』を発展させてきました。そしてそれはくしくもわたしの職業になりました。今でもわたしは自分の仕事を愛しています。なぜなら、それはわたしに相手を傷つけない方法での言い回しを模索し、愛情をもって語り掛けつつも、決して真実を歪めずに、わたしが知覚をしていることをありのままに相手に伝えることのできる機会を与え続けてくれるからです。相手がそれを受け止められるかどうかという問題はまた別にありますが、正しい意図をもとにしている限り、正直さを口にすること程、わたしを癒し、解放をもたらすものはありません。

 

ですので、セッションを通してクライアントが自分自身がこれまでに気づかなかった真実に出会い、自分が大したことはないと卑下していた特質が実は非常に優れたギフトであるということを知ったり、あるいは同時に、無視をしてきた痛みやトラウマの存在に気づき、それらの癒しへと取り組んでいくプロセスをともに歩むことが出来ることは、わたし自身を癒してくれるものなのです。

 

 

けれど、ここでもう一度自己尊重の話に戻りましょう。

 

直観能力というものが、何やら謎めいたサイキック能力であったり、神から使わされた天使の持つ力などでは全くないことは明らかにしました。

 

直感能力とは、自分自身の腹かやってくるメッセージに耳を傾け、それを信じることができるだけの自分自身への尊重を持つ力であり、それが自分にとって都合が良かろうが悪かろうが、そのまま受け止めることができるだけの勇気のことです。

 

同時に、直感能力者を名乗る(わたしも含めて)人たちから伝えられるメッセージは、あなた自身の直観能力によってふるいにかけられる必要があります。

 

あなたのマインドを通してすべてを文字通りに受け取ったり、直観能力者が言うのだからそうに違いないとすべてを鵜呑みにしないように気をつけてください。

 

ハートを開き、深い呼吸をし、何が真実で何がそうでないのか、あなた自身に確認を取ってください。

 

もしも、あなたが過去に体験したことで深く傷つき、自分を信頼することが難しくなっている場合や、これまで人の意見に頼ることに慣れすぎていて自分自身の意見というものを考えてくることのない人生を送ってきているなどの場合によって、「そもそも自己尊重ってなんだろう」というところにいらっしゃるとしても、焦らずに一歩ずつ進みましょう。

 

 

ドイツの建築家であったルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエは、『神は細部に宿る』という言葉を残しています。

 

そして、『元型』の優れたわたしの教師である神学者のキャロラインメイスは、「人生で何故それが起こったのかを探ろうとする必要性を諦め、物事の細部の中に宿る神を見つけなさい」と教えています。

 

人生にはどう考えても不平等で理不尽だと思われることが多く起こります。

 

わたしにとっては、わたしを殺すと脅し続けた母親のものに生まれなければならなかったこと、性的虐待をする男たちに満ちた家に生まれなければならなかったこともそのひとつです。

 

けれどもその中でわたしは、頼れるのは自分だけだということに気づき、息をひそめながらも毎瞬アンテナを張り巡らせて、「今」何が起こっているのかを見る鍛錬をする宿命を生きてきました。

 

その結果が、わたしの強い自分への信頼と自己尊重であり、結果として<探偵>の『元型』を用いて、クライアントが、彼ら自身の内面を<探偵>しながら、自分のなかにある真実を見つけていくことの手助けをするという仕事との出会いです。

 

わたし自身はどの宗教にも属していません。ここでもどの宗教の話をしているつもりもありませんが、神なる存在の秩序がわたしたち人間の理知をはるかに超えて働いていることは確かです。

 

皆さんの人生に今起こっていること、そして過去、子ども時代に起こったこと。

 

それらの本当の理由を探り当てたからといって、必ずしもそこに癒しは待っていないはずです。
ちょうど復讐をすることがわたしたちに満足を与えないのと同じようにです。

 

 

自分の人生の細部に神が宿っていることを信頼し、自己尊重を高められるように意図し、物事がなぜそのように起こったのかという理由探しを諦めて、今自分の持っているものを正しく使って生きましょう。

 

 

そして、わたしの場合は<探偵>の『元型』に見られるものでありましたように、皆さん一人一人にとってユニークな、これまで自分の生存を支えてきたツールがなんであったかに想いを馳せてみてください。

 

例えば、困っている人を助けずにいられない<救助者>であったり、人との親密さを恐れる<処女>であったり、感情に蓋をしてなんでも理詰めで解決をしてきた<エンジニア>であったりと、『元型』の世界は無数に広がります。

 

 

そして、その『元型』が、かつて自分がサバイバルをするために必要とされて育たざるを得ないものであったにすぎないということにわたしたちがふと気づき、「あれ?それじゃ、これは本当のわたしではないのかもしれないじゃないか!」とひらめくときが訪れとしたら、そのときこそが人生の次のステップを迎えるときでもあります。

 

わたし個人はこれまで、<探偵>の『元型』なしでは生きていけないと思い込んでいましたが、今ではあくまでこれを「職業」として用いているにすぎません。

 

わたしの生死を脅かす人間たちから離れた今、わたしは寛ぐことができます。プライベートでこの『元型』を働かせる必要性はめったに起こりません。

プライベートにおいては、自分がサバイバルをする上で必要として身に着けてきた慣れ親しんでいる『元型』以外のパターンを体験してみることを楽しみ始めています。それはまさに、新しく生まれ変わるような体験です。

 

 

わたしたち人間の目を通して眺めるとき、人生は不思議に満ちています。
一方で、神の目を通して眺めるときには、おそらく人生で起こることの全てが緻密に計算され、この上なく理に適っています。

 

わたしたちは「何故なのか」と泣き叫ぶことを止め、わたしたちが信じる神(それが“宇宙”であれ、特定の名を持つ“神”や“女神”であれ)に身を任せればよいのかもしれません。

 

自己への尊重があれば、わたしたちは人生において試されるときにも、自分にとって大切なものを売り渡すことなく、この地上を生きていくことが出来ます。

今日一日が皆さんにとって気づきと光に満ちた一日となりますように。

現在わたしは、スケジュールの兼ね合いからも、リピーターのクライアントの方のみとのワークを重ねています。

場合によっては数年に及んで続いて行くことがございます『元型』の旅を通して長期的なセッションを重ねることを意図してくださいますクライアントの皆様がいらっしゃいますことは何よりもありがたいことなのですが、新規のお客様におかれましては、現時点のわたしの状況によりまして、旅のガイドを承り兼ねる場合もございますので、その場合はどうぞご了承くださいませ。けれども、セッションに至りますかどうかは別にして、もしも気になっていらしゃることやご相談されたいことなどがございましたら、どうぞお気軽にメッセージをお送りくださいませ。何か少しでもお力になれることがありましたら幸いです。

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愛を込めて

セイクレッドテンプル
今村えり

 

◇「元型」の旅を歩んでくださった方からのメッセージ

今までと同じことの繰り返しに飽きて、新しい⾃分・新しい場所へと踏み出したい気持ち が強まっていたものの、どの⽅向へどのように舵を切れば良いのかが分からずにいた中、 えりさんにセッションをお願いすることにしました。 楽な旅だったとは⾔いません。 真っ暗闇の中に、恐る恐る⾜を踏み⼊れる体験の連続でした。 それでも、⾃分の⼒で、どこまで⾃分⾃⾝のありのままの真実を直視することができるの か。これまでの⾃分の⽴ち位置を知り、そしてそこから新しい場所へと向かうためにどう 舵を切るのか。を、実感として知ることが出来た今、とてもしあわせです。 ⾃分の苦⼿なこと、得意なこと、可能性について、えりさんにゆっくりと⼿を引かれなが ら、⾒つめることができました。これからは、学ばせていただいたことを実践しつつ、地 上で⽣きることを更に楽しみたいと思います。 真実を冷静な⽬で捉えつつ、優しく⾒守りながら⼀緒に伴⾛してくれた、えりさん。 えりさんの柔らかく誠意のこもった声に、不安でいっぱいの旅の途中、何度も助けられま した。 えりさんを信じて、ここまで歩むことが出来ました。旅の伴⾛をお願いすることができ て、本当によかったと思っています。 ⼼からの感謝を。どうもありがとうございました。 (40代 女性)

 

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