数年前、わたしのもとを訪れてくださっていたクライアントが、彼女は、人生を不公平であると認識しているということについて話してくれたことがあります。

不満や嘆きという形での表現ではなく、彼女はその想いについて淡々と話していましたが、彼女が子供時代に被った虐待の体験は、愛情と支えに満ちた環境で育った人たちは恵まれていて、彼女のように困難な環境におかれた人たちには、その後、幸せな人生を生きることや、自分の持っている才能を開花させることへの困難さというハンデがあるという感覚を彼女にまざまざと与えていました。

 

彼女の話の終わりに、わたしへの問いかけが含まれていたのには、彼女の感じ方や認識に対して、わたしに同意をされることよりも、そうではないということを聞いて、彼女自身が新しい理解と見方で、自分の人生を捉え、進んでいくことを支えてほしいという相反する気持ちが入り混じっているように、わたしに感じさせるものでした。

わたしはこの時のことをよく覚えています。

なぜなら、彼女の問いかけに対して、そのどちらにも答えることができなかったからです。

 

 

例えば、幼い時からアスリートとしての成功を収める子供たちや、若いうちに歌手としての才能を花開かせて有名になる人たちを眺めるとき、彼らには、彼らの才能を信じ、彼らが自らの興味や情熱に沿って生きることを支えた両親、それらに費やす金銭的豊かさの土壌、彼ら自身の強い肉体と充分な健康状態があったことが想像され、一方で、生後間もない時から生命の維持や健康を危ぶまれたり、両親から放置や虐待を投げつけられた子供たちは、地上における人生を、生存のための葛藤から始めなくてはいけないことに思いが馳せられると、彼女の感じ方や認識は、とても理に適っていると思わざるを得ません。

 

自分自身の個人的な体験からも、子供時代に受けた傷が、どれだけ人生に大きな影を落とし、足枷となるものかを、痛いほどに知っているわたしの一部は、彼女に同意をしていました。

心の別の部分では、きっとそうではないと感じていながらも、わたし自身が、納得しきっていない以上、他者にそれを伝えるには不十分でした。

わたしは彼女の話を聞くこと以外にできることがありませんでした。

 

 

年月が経ち、わたしはその間に多くを学びました。

単に情報として、人生や冷静についての理解を取り入れるのではなく、自分自身の中に、真の理解として、新たな視点と、霊性の目覚めが起こり始めていました。

 

 

「神聖なる存在は、わたしたちには理解することのできないミステリアスな方法で、ひとりひとりの人生に働きかけている。」

わたしが潜り抜けてきた扉によって、至ることのできた理解の核はこのことにつきます。

 

 

神、宇宙、神聖なる存在・・・わたしたちにとって、どのような呼び方がしっくりこようとも、その、完全なる「力」は、わたしたちひとりひとりに、本当に必要なものを理解したうえで、気の遠くなるほどの無条件の愛とともに、わたしたちの面倒を見ています。

 

一方でわたしたち人間は、自分たちが欲しいものは知っているかもしれませんが、自分たちに必要なもの、自分が目覚めるため、そして自分の地上における契約を成就するために何を神に頼んだかということを、ほとんどの場合において理解していないのです。

 

わたしたちは、神なる存在の用いる言語が、わたしたち人間のそれとは異なることも思い出す必要があります。

 

わたしたちの目には、不平等で不公平に見えるもの、不運や困難に見えるものは、実は、神の目から見ると、恩寵であり、完全なる公平さであるかもしれません。

 

人生が簡単で、楽しく、物質的にも成功を得ているとに、実は、わたしたちは自分の肉体や霊の中に、ネガティブなエネルギーを植え付けていて、自分自身の本当の道から離れていく方向にハンドルを切ってしまっているということもあり得るのです。

 

人生が混乱に満ち、難しく、道にはぐれたままで放置をされているようにすら感じられるときにこそ、自分自身の霊の力を強め、神なる存在へのゆるぎない信頼を強化し、すべての幻想を切り裂くことのできる、恩寵と可能性に満ちたときであることもあるはずです。

 

 

 

わたしたちの論理的な物の見方で人生を眺め続けるとしたら、あまりに多くのことが無秩序で痛みに満ちています。わたしたちは、多くの裏切りにすら出会います。

わたしたちが、神なる存在を否定したり、自分は面倒を見てもらっていないという判断をする理由は何万通りも見つけられるはずです。

 

 

けれどももし、わたしたちが神なる存在の目と共に人生を送ることにチューニングを合わせるとしたら、もし、わたしたいが神なる存在の言語に耳を傾け、その波長にチューニングをあわせるとしたら、わたしたちは、すべてのことが完全に配慮されていること、神なる「力」の存在を疑える出来事や、その存在への信頼を埋葬することなど一つもないことを理解することができます。

 

もしも、真の霊的な目覚めを求めるのであれば、人間の、地上の、物理次元の視点で、人生で起こる出来事を理解することを放棄する過程は、不可欠なのです。

神なる存在に対し、”なぜわたしにこのようなことが起こったのか”と問いかけて、自分が理解することのできる理由を与えることを求めている間は、成長は起こりえないのです。

 

 

スピリチュアル”ブーム”の中で、多くの人が(そしてかつてわたし自身も)誤解をしていることのひとつは、わたしたちが霊的な人間、よりよい人間になれば、人生はより簡単になり、物事がスムーズに開き始め、愛に満ちた体験だけが雪だるま式に増えていくと考えていることです。

 

実際には、わたしたちが真の霊的な生き方に開けば開くほど、神聖なる存在の近くへ進むことを求めれば求めるほど、人生はより困難でチャレンジに満ちたものになりえます。

 

人生に、より多くの光を招き入れれば、それだけより多くの影もくっきりと浮かび上がります。

 

人生は、わたしたちが、人間のレベルで、「良い」と捉えることだけに限定されず、あらゆる側面において、鮮やかさを増して現れるのです。

 

 

より多くの光、より多くの影。

より大きな意識、より大きな痛み。

より多くの恍惚。より大きな苦しみ。

 

 

自分の好きなほうだけを選ぶことなどできないのです。

 

 

「ありがとう/ごめんなさい」を唱えれば、、、一日一回瞑想の時間を持てば、、、他者を許せば、、、
そうすれば自分はスピリチュアルな人間になり、健康は約束され、悪いことは起こらず、人生はきらきらし始めるなどというのは、わたしたち人間の狭い価値観や理解をもとに、神や宇宙に対し、交換条件を出して取引をすることを試みるようなものです。

 

 

わたしたちが自分自身に対して本当に持つべき真の問いかけは、

「何が起ころうと、神なる存在に対し、わたしは自らを開いて”YES”と答えることができるか」

というものです。

 

わたし(のエゴ)が燃えつくされようと、神なる存在に触れたいという渇望と欲求とともに、自分自身を完全に開くことができるか。

自分が欲しい特定の物や場所ではなく、自分が潜り抜けるべき体験、行きつくべき場所、それが何であれ、そこへと導いてくれることを神に祈ることができるか。

 

それが、わたしたちが、自分に対し、どれだけ準備ができているかを問いかけることのできる、真の問いかけです。

 

 

人生において困難や混乱が起こっているとき、わたしちは、なぜそれが起こっているのかを理解することはできないのです。

 

どうして、わたしはこの虐待に耐える必要があったのか、どうしてわたしは足や視力を奪われる必要があったのか、どうして仕事を失ったのか、どうして愛する人が去っていったのか。。。。

 

 

鍵になるのは、それらを理解することと引き換えに進むことを決意するのではなく、それらがなぜ起こったのかを今すぐに理解できずとも、何か、その背後で神なる存在の手が自分の人生に介入しているということ、すべてが必要性の上で起こっているのだということへの信頼をもって、進むことを選ぶことができるかどうかです。

 

 

わたしたちの中で真の変容と統合が起こり始めるのは、わたしたちが本当の意味での霊的な旅を始める準備ができたときです。
わたしたちが、もう人生の表面で小さく遊ぶことに甘んじることを止めて、自分の信じるものに身を投じる覚悟ができたときです。

 

 

人生とは最終的に、この地上において、何を体験したかではなく、どのような体験を持っても、神なる存在へのゆるぎない信頼と絆を持ち続けることができるかということに尽きるのかもしれません。

 

 

 

ハートの沈黙において、わたしたちひとりひとりが、神なる存在を体験することができますように。

 

 

 

 

 

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