旅をしていると、色々な人との出会いが重なります。
性別も、年齢も、国籍も、これまでの人生の体験、信条や信仰も、様々です。

今わたしはインドに滞在しています。

先日、あるきっかけで、わたしは、3人で一緒に旅をしているという、美しい人たちに出会いました。
フランス人の若い男の子と、フランス人男性とインド人の女性のカップルの3人です。

彼らの滞在している宿に遊びに行かせてもらって、雑談をしながら楽しいひと時を過ごしていました。

会話を重ねる中で、自分の国の特徴的な”条件づけ”について話が移り、フランス人の男性たちは、自分たちは料理をこよなく愛しているということに加えて、なぜか他の国の人たちよりも優越感を持っているところがあるということを話してくれました。

わたしは、日本の条件づけとして、他の人たちを気遣い、調和を重んじる美しさがある一方で、自分はどうしたいのか、自分は何を感じているのかということをおざなりにしてしまうところがあると感じているということを話しました。

それは、ジャッジのない雰囲気の中での、友人同士の、正直な分かち合いで、わたしたちはくつろいでいました。

けれど、次にインド人の女性が、インドの条件づけについて話してくれたことを聞いたとき、ものすごく大きな痛みがわたしの胸を打ち付けました。

それは、

「インドでは、暴力は許されるけど、愛は許されない

という言葉でした。

 

ヨガ、タントラ、チャクラ、神々への崇拝、多くの悟りを得たマスターたちの輩出・・・

わたしたち人間のからだに秘められているエネルギーシステムの理解や、わたしたちの中にある男性的エネルギーと女性的エネルギーの融合を通して、愛の円環を作り、悟りへと開いていくこと・・・・ インドは、古代から、他のどの土地や国でもなし得なかった貴重な宝石を産みだし続けています。

それでも、彼女の言ったこともまたまぎれもない事実です。

誰と一生を共にするかということを、インドではいまだに親が決めています。

インドはとても保守的で、愛の表現が公の場で許されていません。

人は触れ合ってないのです。

 

それでも、人は公の場で平気で怒鳴り合い、喧嘩をし、時には肉体的な暴力を伴って争います。

ハグやキスが日常的な西洋からの旅行者でさえ、場所によっては手を繋いで歩くことも、好奇の目で見られるほどで、インドの人たちを尊重するために、ふれあいを避けて過ごします。

わたしも一人で旅をしている分、自分の身を守るために、肌の露出を控え、日が暮れた後には通りに出ないようにします。旅行者がレイプをされた話を毎回耳にするからです。
女性はまだまだ男性に性的に搾取されています。

そして母親は自分の娘を、彼女が自分を美しく価値がある人間であると感じながら生きていけるだけの十分な愛情や滋養を注ぐことが出来ません。
自分自身に美しさや価値や強さを見出していない人間に、それ以上のものを他者に渡すことなどできないからです。

とても美しく、また、インド人女性としてはとても勇気のある生き方をしているこの女性もまた、自己価値観の低さと、自分自身の肉体への劣等感に苦しんでいました。
内なる男性と女性の融合を見出したインドにおいて、矛盾にも、女性を虐げること、暴力を通して他者の肉体に交わることが横行しています。

けれど、これはインドだけの事とは感じられません。
どの国においても、そしてわたしたち一個人の中においても、暴力が見過ごされ、愛が抑え込められています。
自分の顔やからだを見て、

”何て美しいんだろう”
”わたしはありのままの自分の姿に本当に満たされている”

と感じる人はどれだけいるでしょうか。

そう思うべきだと信じていたり、そう思いたいと願っている人はたくさんいるはずです。

けれど実際には、

”自分の顔のここが醜い”
”なんでこんなに太っているんだろう/痩せているんだろう”

そう思う人の方が多いはずです。

 

わたしたちは、自分のからだに愛と滋養を注ぎ、からだを神聖な寺院として崇拝することよりも、自分のからだを批判し、酷使し、忌み嫌うことの方に馴れているはずです。

自分自身への愛よりも、暴力の方に、多くのエネルギーを投資しているはずです。

もしも、わたしたちがその事実に気づくことから始めることが出来るとしたら、どうでしょうか。

自分の中の暴力 -それが肉体的なものであれ、性的・感情的・精神的、霊的、どんな側面のものであっても- に気づくことから、癒しと変容に向けての扉を開くことができるとしたら、どうでしょうか。

自分自身が、暴力の中にありながも、他者を愛そうともがいていることの矛盾に気づくことができるとしたら、どうでしょうか。

 

わたしたちのスピリットを抱える器である、神聖な寺院としての肉体を、暴力のための道具にするのではなく、愛を奏でるための楽器にすることが出来るとしたら、わたしたちはどんなふうにこの地上を作り上げていくことが出来るでしょうか。
わたしたちが目覚めることができますように。

天界にあった愛と光を、この地上においても肉体を通して体験することができますように。

 

 

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